2008年09月18日 (木) | 編集 |

今回は抽選に当たったので、またまた神戸学校へ行ってきました。
茶道とはまったく無縁な私ですが、お話を聞くかぎり、奥の深い厳しい世界に感じました。
2008年9月13日/エスパスフェリシモホール
ゲスト:木村宗慎さん(茶道家・コーディネイター)。
テーマ:数寄・好き sukizuki の硲(はざま)~茶はいったい何を“たてる”のか
宗慎さんは、いずれの人に対しても、基本の型をマニュアルのごとく教えるらしい。
ただ、不思議なことに、同じ教え方をしても、そこになぜか各々の個性が見えてくるそうです。
“ワクに、はめこまれることによって、隠しようのない自分というものが見いだされてくる”
う~ん、こういうふうに考えたこと、なかったです。
作法というと、どうも堅苦しい、融通のきかない世界っぽく感じてました。
先生のおっしゃってることはどういうことかというと、
型にはめこまれることによりワクの中で行き詰まってしまいます。そんな中、可能性を求めてもがき苦しむ。その中で、どうしても消しきれなかったもの、自分にとって大切なものが見えてきます。それは、見苦しく恥ずかしい自分の姿です。
茶の湯では、その主の見苦しい姿をそっとわかってあげる、つまり、客人は受け取って許してあげる、のようなものらしいです。
本人が極限まで真摯な姿勢であるからこそ、厳しいやりとりが生まれ、それが茶室という空間として完成されてくるわけですね。
そして、この人と人が生み出す瞬間は、二度とおとずれないわけで、
これが、一期一会、といわれるものかなーと思います。
一期一会って、出会いを大切に、のようなものかなと理解してましたが、
そんな甘いものでなく、まったく違うということがわかりました。
今のこの瞬間、この空間に完成したものは、保存できません。
二度とおとずれないので、大切に置いておくことは不可能なのです。
たぶん、それに近い意味なんだろうと思います。
今回のマイクでしゃべる講演のような形ではなく、
本来、先生の振るまい、物腰、しゃべり方から、感じ学んでいくものであろうなと思います。
神戸学校の最後に、講演者に対し、最後の質問があります。
“あなたが思う日本のたからものは? ”というものなのですけれども、
宗慎さんは、
今、目に見える結果をすぐに求める風潮ですが、古来、日本人は、目に見えない、言葉に出したら壊れる、形になどしようのないものを大切にしてきた。これを愛するということではなく畏れるという気持ちを、いま一度、呼び覚まして欲しい、というようなことをおっしゃってました。
“愛する”ではなく“畏れる”? これは何かなと思い、“畏”を辞書で引くと、
・うやまう、たっとぶ ・つつしむ、自分をいましめる ・かたじけない、ありがたい ・正しくすわる、威儀を正してすわる
等が書いてありました。
そこにある美しい間合いようなものを感じますね。
所作とは、型ではなく、その人の持つ人生が
おのずと表れてしまう、おそろしいものでもあろうなということを感じます。
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